10月8日(日)、第5期講座の最初の撮影会が、石浜神社から汐入公園にかけて開催されました。
今回は、約2キロの区間に広重が描いた「名所江戸百景」の場所が5カ所もある内容の濃いコースです。
その場所は、「真崎辺りより水神の森内川関屋の里を見る図」、「墨田川橋場の渡かわら竃」、「隅田川水神の森真崎」、「木母寺内川御前栽畑」と「綾瀬川鐘か渕」で、江戸の当時を思い描きながら今の場所を訪ねます。
集合場所は、白鬚橋の西詰そばにある石浜神社、「真崎辺りより水神の森内川関屋の里を見る図」描いた場所とされているところです。
境内には真崎稲荷神社や富士講関係石造物の富士塚などがあり、13時の集合前から各自シャッターを切っていました。
鷹野先生から広重の1枚目の絵の説明を聞いて、出発です。
スタート時は、雲が広がったどんよりした空模様で、夕方からは雨が降る予報が出ていました。
2枚目の「墨田川橋場の渡かわら竃」は、隅田川テラスで、鷹野先生の説明を聞き、暫しの撮影タイムを楽しみました。
橋場の渡し場は、白鬚橋付近にあったが橋の架設により廃止され、かわら竃は今戸焼の窯元で、今はなくなっているそうです。
白鬚橋周辺は、護岸整備の工事が進められており、工事の「お知らせ」には、来年3月中旬まで続くと記されていました。スタイリッシュな白鬚橋の全景を見ることができるのは、それまで待たなければならないようです。
次に向かったのは、隅田川神社(「隅田川水神の森真崎」)です。
隅田川の東側に防災拠点として整備された18棟からなる大型団地(白鬚東団地)があり、この建設に際して、隅田川神社とこの後訪ねる木母寺は隅田川よりの現在地に移設されました。
6号棟と7号棟の間に当時の鳥居が残り、木母寺跡は梅若公園(梅若塚跡)になっています。
この鳥居から、団地・公園を抜けて隅田川神社へ向かいました。
昔この付近に、浮島状の小さな森があり、その森の中の小社が、舟運業にかかわる人々から信仰を集めいていました。その小社が現在の隅田川神社の前身で、境内の一角に錨が奉納されていました。
ここで珍しいのは、社殿の前には狛犬ならぬ狛亀が祀られていることです。しかも、その亀には耳があるのです。皆さん一生懸命狛亀をカメラに収めていました。
また、社殿の裏手にある鳥居の柱には、「奉納 震災倒壊再構築 大正十弐年九月一日」と刻まれた銘板が取り付けてあり、関東大震災の影響を物語っていました。
次に向かったのは、200mほど離れた木母寺です。
ここは「木母寺内川御前栽畑」の場所で、境内には「梅若堂」、「梅若塚」がありました。
梅若とは、平安時代中頃に吉田少将惟房の子供・梅若丸のことで、父が亡くなったのち、7才で比叡山のお寺に預けられましたが人買いに連れ去られ、この地で12才のときに命を落としました。その息子を探しに出かけた母は、一周忌の日に隅田川を渡りこの地で梅若丸の死を知り、妙亀尼となりお堂で念仏唱え暮らしたそうです。
この物語が謡曲「隅田川」として、歌舞伎や謡曲などの演目として上演され人気を博したそうです。
最後に訪ねたのは、水神大橋を渡り「綾瀬川鐘か渕」を描いたと思われる場所の汐入公園です。
ここから見る隅田川の対岸「綾瀬川鐘ヶ淵」は上に首都高速が走りやや興ざめです。中央が綾瀬川その右側がかっての鐘ヶ淵です。
皆さんご存知と思いますが、鐘ヶ淵はカネボウ発祥の地でもあります。
公園内に隅田川の旧防潮堤が残っていました。
この防潮堤は、昭和32年から工事に着手し、昭和50年度に完成したもので、現在のスーパー堤防が完成したので、旧堤防を後世に伝えるために一部が保存されていると現地の説明板に記されていました。
この堤防が、東京の東部低地帯を水害から守っていたのかとみんなして見上げていました。
雨が心配されたましたが、何とか降られずにすみました。全員元気な顔をそろえ、それぞれの家路に向かいました。
10月22日(日)14時から「講評と講座」が森下文化センターで開催されます。
「講評」では、今回撮影した作品について、鷹野先生から講評とアドバイスをしていただきます。「講義」では、次回(11月5日)の撮影会で訪ねる「砂むら~深川~小奈木川」の描いた場所や見所などの解説があります。
「写真サークル江戸東京散歩」や歌川広重の「名所江戸百景」などに興味をお持ちの方、見学されませんか。無料ですのでご気軽にご参加ください。
見学のご希望、また、問い合わせなどは、お気軽に「お問い合わせ」をお待ちしています。